2012年御翼3月号その3

「祈り」と「永遠の命」の正しい意味

      
―ケセン語訳聖書 山浦(やまうら)玄嗣(はるつぐ)医師

 岩手県気仙(けせん)地方の大船渡市に住むカトリック教徒の医師・山浦玄嗣先生(元・東北大学医学部助教授)は、地元の言葉をケセン語と名付け、その言葉で福音書が読めるように、ギリシャ語の原典から翻訳した(2002年)。信仰の家庭に育った山浦先生は子どもの頃、池の水に顔を浸けられるなど、半殺しにされるほど迫害され続けてきた。それでも、早くに夫を亡くし、女医として家族を養った母は、聖書の神への信仰を子どもたちに伝えた。その信仰を受け継いだ山浦先生の子どもの頃からの夢は、地元の言葉で聖書の言葉を語り、気仙地方の人々に信仰を理解してもらうことだったのだ。山浦先生のこの活動を知ったのは、2010年2月7日に放送されたNHKの「こころの時代」で、御翼2010年2月号その4でご紹介した。その約1年後の2011年3月11日、東日本大震災の津波によって、大船渡市は壊滅した。死者・行方不明者は400人を超え、8千人が避難生活となった。山浦先生は無事だったが、医院も自宅も床上まで浸水、一日掛けて泥、重油、下水の汚物をかき出し、医院にて、高血圧や糖尿病など、慢性の持病をかかえる人々に必要な薬を処方し続けた。
 聖書のケセン語翻訳を始めたのは、聖書を知らない人たちに真理を教えたい、という思いからだった。しかし、翻訳を続けると、先生ご自身が、今まで聖書の言葉の真意を知らずいたことに気づかされたという。津波の後、山浦先生の心に、いっそう深く心に刻まれた聖書の言葉は、「祈り」であった。よく、「一日も早い復興を祈ります」と人は言うが、「祈り」を国語辞典では、「自分の力ではどうにもできないような困難なことについて、神様、仏様にお願いすること」とある。日本語の「祈り」は「お願い」なのだ。しかし、新約聖書で「祈る」と訳されている言葉は、原文では、「神を誉め讃えること」、「お願い」などの意味がある。一番多く使われている「祈り」と訳された言葉は、「プロセウホマイ」(動詞)で、これは「聞く」である。御声を聞くのが、祈りの原点なのだ。神が私たち人間を用いて、どんなことをなさりたいのか、これを聞くのが祈りである。私たちは、聖書から、そして身の回りに起きている出来事から、謙遜に御声を聞き、自分が何をすべきかを知る必要がある。震災直後、山浦先生に響いた御心は、寒さの中で処方箋を書き、医師としての本分を尽くす、というものだった。
 イエス様は復活されたのだから、私たちにとっても死は終わりではなく、大きな喜びの命の中への新たな誕生、移行なのだ。災害で多くの人が亡くなったが、別れの悲しみの中に、大きな慰めがある。それは、亡くなった人たちは、消滅したのではなく、神の大きな懐の中、「永遠の命」の中に甦ったのだ。しかし、人は生きている間に死んでいるような状態になっていることが多々ある。絶望し、悲嘆に暮れて、望みもなく、頼るものもなく、心細くてどうしてよいのか分からない…お先真っ暗で頭をかかえているような状態は、生きているとは言えない。復活は、ギリシャ語「アナスタシス」の翻訳で、それは「起き上がる」(アニステーミ)の名詞形である。横になっているものが立ち上がるのが復活である。「もうだめだ」と思っている人が、また元気になって、「よし、またやるぞ!」と起き上がるのも、アナスタシス(復活)なのだ。「永遠の命」という日本語に訳されたギリシャ語「ゾーエー アイオーニオス」のゾーエーは、命という意味も少しあるが、本来は、生きること、暮らすこと、しかも元気で、幸せで、喜びに満ちて、ピチピチして暮らす、という意味なのだ。アイオーニオスも、永遠という意味もあるが、本来は、時間と関係がない、という意味である。「いつでも、喜びに満ちて、幸せで暮らす」のが永遠の命である。震災で打ちのめされ、虚脱感を体験しても、「また立ち上がろう。そして明るく朗らかに、元気に力強く新しい暮らしを初めて行こう」と言えるのが、キリストに救われ、永遠の命を持つ者の生き方なのだ。そのように神に信頼して、再起する者を、神は信頼してくださり、より大きな使命を任せてくださる。ますます重荷を背負わされるかもしれないが、それでいいじゃないか、と先生は言われた。(より大きな責任ほど、素晴らしい報酬はないのだ。)(以上、NHK Eテレ2011年5月22日「こころの時代」シリーズ私にとっての3.11「ようがす・引き受げだ」医師・山浦玄嗣より)
 確かに、山浦先生は、より大きな使命を任された。最初は子どものころの迫害、ケセン語聖書の出版、それが震災後の活動の備えとなり、今や被災地の医師として、健康のみならず魂の平安まで支える働きをされている。「罪が支払う報酬は死」とあるとおり、人はそのままでは、不安に打ちのめされ、生きていても死んだような状態となってしまう。しかし、イエス様は私たちに永遠の命をくださる。」それは、いついかなるときも、再起し、元気で幸せで、喜びに満ちて、ピチピチ暮らせる命なのだ。

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